六〇年安保の頃

岩間 六〇年安保のときは生徒のほうでも動きがいろいろあったかと思いますが、いかかですか。

小野 平和への願いは一貫して流れているわけです。 記念祭の火が消えたのは、戦争による学校への圧迫でしょう。 そこから象徴的に火をともしつづける。 だから、他の高校に比べてみても、政治的なものが出てきたにしても、みんな基調にあるのは平和です。 それが六〇年安保にいくんだろうと思うのですが、最終的には請願にずいぶん出ていましたが。 父兄を呼んで学校の情況を説明する場面があって、「遅刻が減った。欠席が減った」と柴田さんが言った。 実際、そうだったんです。 あのときには、毎晩のように出て行くのに、それでいて学習意欲はぐっと高まっているわけです。 だから、父兄も納得するわけです。 教師の言うことを聞き耳を立てて聞いたな。 ぼくらが安保の現場を見ていても、大学生は「もう勉強させろ」というスローガンが見えたけれど、うちの場合は勉強と両立させていたね。 むしろ高まっていたのです。 だから、いかに社会的な課題と結びついたとき、子供自身の学習意欲がそれでもって研ぎ澄まされ、積極的になっていくか、そういう関連には驚いていますね。

岩間 それに対応して、先生方の職員会議も長かったんじゃないですか。

喜多 短い職員会議というのはあまり記憶にないな(笑)。

柴田 生徒が要求などを九時くらいから持ってくるんですが、九時ごろから来るのは本物ではないんです。 一一次から後になると、本物が出てくる。 そうして、終電車を待つのです。 私は終電車が新宿発一二時二〇分ですから、一二時ちょっと前に出ないと間に合わないでしょう。 それが私がオートバイに乗りかえた本当の原因なんです(笑)。 負けられない。負けて、そこで打ち切れば、話はうやむやになってします。 それでこちらはオートバイに乗りはじめたのです。 そうすると、二時でも三時でも何ともない。 それで、向こうが引っ込むようなことになりましてね。

工藤 まずたいてい一一時だったね。

喜多 いまはどのくらいですか。

岩間 いまは非常にスピードアップされまして、七時までには終わります。

春山 安保のもっとも前だったと思うのですが、小笠原校長さんの名前で「高校生の政治活動について答える」という古い文章が出てきたのです。 質問を受け、ちょっと返事をしたらしいのですが、まずいということからか、再度返答するということで職員会議にかけたらしいのです。 その経過をずっと書いていて、「認める、私は職員会議を誇りに思った、優れた教員の討論を聞いて、私も勉強になった」という気持ちでもう一回返している文章が学校の金庫から出てきました。 ガリ版刷りなんです。 小笠原先生が亡くなられたのが三一年(編者注:昭和31年)で、赴任されたのが二五年(編者注:昭和25年)ですから、安保のもっともっと前ですね。

岩間 そうすると、いわゆる管理主義とは無縁の学校だったわけですね。いろいろな意味で時間はかかるかもしれないけれど。

柴田 教育委員会とはちょっとずれていたんです(笑)。教育委員会は直接来ないわけです。 あとは教育委員会が中に入ってしまいましたけれど、はじめは学務課だったんです。都立大学の続きで。

喜多 生徒に傍聴させたいなと思うような会議をやっていましたよ。 そうすると、二重にならなくていいんだれど。あの経過を聞いていれば、いちばん生徒は理解してくれるだろう、という感じがありましたね。

 
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