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コラム&会報

     過去の同窓会報の抜粋は→会報IMG にお進みください(2011.12分から掲載)

■連載コラム「八雲の風」

NO.2

随想 私はなぜ8期生なのでしょう  2013/9/24 須田大春(8期)

 1958年3月にトリツを卒業したから50引いて8期生とか、「3年間厄介をかけたから厄介生=8回生だ」といわれて、そんなものかなと思っていたが、大学の同級生の多くが新制高校10期生だと知って、なぜだろうと思った。トリツの生誕は一筋縄ではいかなかったので2年遅れたのか? その頃歌われていた「教師棚卸」には、「九つとせ、ここで出てきたボンジさん、支那哲で説く共学論」というのがあり、「第三高女(いまの駒場高校)との合併話をボンジが画策したがうまくいかなかった」という噂話もあり、そんなところかなと50年余り思いこんでいた。

 今年の記念祭に展示するために、府立高校・都大附高・桜修館をつなぐ年譜の原稿を書くように宍戸理事長から依頼があって資料集めをした。生来の怠け癖から年譜パネルそのものは完成できなかったが、宍戸さん・北原さんのおかげで簡略版が紙に印刷して展示された。この資料集めが50年来のなぞを解いてくれたので報告する。

 1947年4月、戦後教育制度の目玉商品である3年制の新制中学が発足した。小学校の6年と合わせて9年間の義務教育である。これに伴い5年制の旧制中学は1年生の募集を停止した。学校の制度変更には時間がかかる。在校生を新制度に受け入れなければならないからだ。旧制中学は在校生を3年制の新制高校とその付設中学に引き継いだ。東京の場合は東京都立第n中学校を東京都立新制第n高校にしたのである。のちにn=1は日比谷、n=5は小石川になる。当時の5年生は1943年4月に東京府立第n中学校に入学した人になるが最高学年を2回続けて6年まで在校し、2年後の1949年3月に新制高校の第一期生として卒業した。府立1中・日比谷には48年の卒業生がいない。

 一方、府立高校(正式名称には東京がついてない)の場合、尋常科4年・高等科3年の7年制であった。成績優秀者の飛び級を制度化して中学5年を1年短縮した制度である。尋常科の1年生は旧制中学と同じ1947年4月に募集を停止した。このときの在校生のうち高等科の3学年はそのまま旧制高校を卒業した。1948年から50年にかけての旧制17期・18期・19期である。尋常科4年生だった20期生は高等科を1年だけ修了したところで1949年3月(昭和24年)に学窓を出た。全国の旧制高校生と同じく新制高校卒の資格を意味する「24修」と呼ばれるが、7年制高校の24修は飛び級しているので1年若い。新制中学に1年遅れて、新制高校ができた。都立高校尋常科は東京都立新制高校となった。n=0で前ゼロサプレスされた形である。さらに1年遅れて新制大学ができて高等科が東京都立大学になったのに伴い、東京都立新制高校は東京都立大学付属高等学校になった。新制中学発足時に尋常科2・3年生だった幻の21¥22期生は飛び級の恩恵を被ることなく6年在校して新制の1・2期生として卒業した。1951¥1952年のことである。結果的にトリツの1期生は他校の1期生より2年遅いことになる。単純に他校は5年制の中学で、トリツは7年制の高校だったから発足が2年遅れたといったことではないことがわかっていただけただろうか。


八雲の風  NO.1                        宍 戸  迪 武

       「八雲が丘」

 東京都目黒区八雲1丁目1番。ここに2011年(平成23年)3月まで、私たちの母校「東京都立大学附属高等学校」があった。この地を、私たちは「八雲が丘」と呼ぶ。

窓の空いた洒落た塀で囲まれていた7万u近いこの土地は、1932年(昭和7年)から1950年(昭和25年)まで、7年制の旧制府立高等学校の校地だった。府立高校は戦後の学制改革で東京都立大学と都立大学附属高校とに分かれ、1991年(平成3年)都立大学が八王子に移転するまで、大学と高校がここで共存していた。今は4万u弱が「目黒区民キャンパス」、3万u弱が6年制の都立桜修館中等教育学校となっている。

 確かにここは丘だ。東に歩くとすぐ坂を下って、環七に出る前に呑川の柿の木坂支流の谷を渡る。南に下れば目黒通りと平行に呑川の本流があって、都立大学駅の裏で柿の木坂支流と合流している。西に歩けばこれも呑川、駒沢支流が谷を刻んでいるのだ。北側だけがしばらく平らだが、駒沢通りを越えると回り込んでいる柿の木坂支流の上流にぶつかる。

いまはどの川も暗渠化されて緑道になっているが、東西南北どちらに向かっても坂を下って川に出会う、確かにこの地は丘なのである。

 ところで、「八雲」という地名は、どこからきたのだろうか。目黒区の古い「月刊めぐろ」によれば、母校のすぐ南にある氷川神社と深くかかわっているという。

 氷川神社は、日本神話の素戔嗚尊(住謬賓債)を祭る神社である。素戔嗚尊が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して、奇稲田姫(クシナダヒメ)を救いだした後に詠んだ歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」は最古の和歌といわれているが、これが八雲の地名の起源らしい。目黒以外にも氷川神社は埼玉、東京中心に200社以上あり、総本社がさいたま市大宮区高鼻町の大宮氷川神社である。「八雲」が氷川神社と素戔嗚尊の和歌に由来するなら、各地に八雲の地名が残っていそうなものだが、あまり詮索はすまい。

 1964年(昭和39年)に採用された住居表示は「八雲1〜5丁目」だった。隣接する北が「東が丘」、南が「自由が丘」であることを思えば、「八雲が丘」でも不思議はなかったのだ。しかし、そうはならなかった。なぜか。

私たちに言わせれば、現在の「八雲1丁目1番」こそが「八雲が丘」だからだ。旧制府立に学んだ先輩たちも、都立大附属に学んだ私たちも、桜修館に学ぶ後輩たちも、「この学舎をしたい来て、八雲が丘に集いけり」なのである。          

                                                      (2012.07)



■新理事長挨拶

                   二つの課題を

                                  東京都立大学附属高等学校同窓会理事長

                                                      宍 戸  迪 武

今春より同窓会理事長を務めております、第13期・1963年(昭和38年)卒業の宍戸です。前任の内野滋雄前理事長には、長年にわたって同窓会を率いてご活躍いただきました。心から敬意を表しお礼申し上げます。その後をうけていささか非力ではありますが、私たちの同窓会活動がより活発に展開されるよう心を砕いてゆきたいと思っています。

大きな課題は二つあります。

一つは、同窓会の第一の目的である「会員相互の親睦」をいかに果たしていくかです。都立大附属高校63年の歴史の中では、同窓と言うだけでは必ずしも一体感を持てない卒業生も数多く生まれています。世代間の感覚の相違、認識の違いを超えて「会員相互の親睦」を図るにはどのような方法があるのかを、改めて検討したいと思います。

もう一つは、昨年3月で閉校となった母校の「歴史と伝統」をどのように継承していくかです。都立大附属高校が旧制府立高校から受け継いだ校旗、校章、校歌が、都立桜修館中等教育学校に引き継がれたように、目に見えない精神や理念もぜひ受け継いでほしい。そのために、桜修館の先生方、生徒、卒業生諸君とどのような関係が作れるのかを考えます。幸い、旧制府立高校同窓会、都立大附属高校同窓会、桜修館同窓会の三者で構成される「八雲が丘学友会」も発足していますので、このなかで具体的な方策を検討してゆきたいと思います。

他にも「課題」は多々あるわけですが、ひとつひとつ解きほぐして解決に近づけてゆきたい。

どうかご支援、ご鞭撻いただきたいと思います。

具体的な課題、方針、計画、決定事項は、出来るだけタイムリーに、このホームページ上にアップしていきます。ご意見、ご提案などあれば、ぜひお寄せください。


■平成23年12月発行の会報から

同窓会今昔

同窓会理事長 内野滋雄(1期)

昭和十九年七月、サイパン島玉砕。当時の佐々木順三校長は朝礼で「戦争は間もなく終るだろう(言葉には日本は負けるという意味が含まれていた)。学問は自由である。諸君は学問に励み、真理を探究せよ」と静かに語られた。日本刀を持ち出す学生はいたが、多くの学生・生徒は静かに聞いていた。真理の探究、自由と自治の伝統は戦争中でも生かされていた。

 戦後の学制改革で、旧制の府立高等学校高等科は都立大学に、尋常科は同附属高等学校になった。

 昭和二一年に旧制最後の尋常科一年生が入学してきたが、六年後に卒業し、都立大附属高の二期生ということになる。この間昭和二四年には都立大学が設置され、初めて二期生のクラスに女子二〇名が編入し八雲が丘の雰囲気は変わった。大学にも高校にも女子がいる。当時われわれは都立高校附属大学などと呼び、母家を取られた不満を顕にし小競り合いが絶えなかった。

同窓会創立の頃

 旧制府立の同窓会はしっかりしたものであったが、新制のわれわれは同窓会を新しくつくらなければならなかった。われわれ一期生が尋常科四年の時、同窓会は必要だから在校中に同窓会費を積みたてようと提案し森脇大五郎校長に頼んだが、なかなか埒が開かない。卒業してしまえば会費はまず集まらないから運営が困難となると言っても暖簾に腕押し。昭和二五年二月に都立大学から来られた第二代の小笠原録雄校長にその事をお願いしたところ「それはいいね。そうでもしなくては会費は集まらないでしょう。それにしても君達の発想はすごいね」と言っていただき、その後学校の事務が毎月同窓会費を月割で集め卒業時にまとめて同窓会に振り込んでもらえるシステムができ、それが今日まで続いていた。故小笠原校長、歴代の事務担当者には感謝してもし切れない。

初代の森脇校長が世界的な遺伝学者であることを知ったのはずっと後のことだった。

学園紛争と同窓会

 初代の同窓会理事長には私がなったが、十年程して若手が引き継いだ。その後も同窓会は続いていたようだったが、昭和四二年以降学園紛争の波が全国に拡がり、母校も第一次第二次の学園紛争へとエスカレートしてゆく。校長室、教務室等の封鎖や校舎の封鎖もあって校内は混乱を極めた。その頃、斉正子先生から私の所に電話があり「今の学校は危機的状況で内野さん何とか一度学校へ来て見てちょうだい。同窓会で何とかして欲しいのよ。」ということだった。校庭の西隅に建てられた木造校舎が封鎖され、上階に陣取った生徒が下を通るわれわれに水をかけてくる始末。斉先生の目の色が変わっていた。同窓会の活動は全く無くなっていて乱脈を極めていた。

 斉先生が言われたことは「紛争は治まるだろうから、同窓会を再建して欲しい」ということだった。これは何とかしなくてはならないと再建することになり、一期から十期ぐらいまでの理事評議員が集まり、斉先生も同席されて再建が始まり今に至っている。しかし、会報を出すことになって、原稿を担当者に送っても会報が出ないし原稿が紛失することもあり、なかなか軌道に乗らない。これも皆が忙しく、働き盛りの人達だったので止むを得ないとは思っている。

同窓会への想いの違い

 同窓会は名簿を発行して同窓生の情報を共有することが大切な仕事である。しかし紛争時代の卒業生の中には名簿から削除してくれという人もいた。そういう気持を持つことは、その学校を卒業した履歴は一生消えないのだから不幸なことである。このことについて理事会、評議員会で検討し総会で決議した点は、卒業生名簿という面があるので姓名を削除することはしない。しかし最終学歴、住所、勤務先などの掲載の拒否は個人の自由とすることになった。

 最近は四期の野口貞義君のお陰で名簿や会報が順調に出ている。深く感謝するところである。そして十期台の人々が今は中心になり支えてくれている。

後輩桜櫻修館との連繋

 平成二三年三月をもって東京都立大学附属高等学校は閉校となり、四月からは東京都立桜修館中等教育学校が一年生から六年生まで八雲が丘のキャンパスを埋めている。今年の記念祭では演劇、展示など高度なもので、才気が感じられる。やはり伝統は生きているし、血は争えないと感ずる。

 桜修館の校是は「真理の探究・高い知性・広い視野・強い意思」である。われわれの「真理の探究、自由と自治」と通ずるものがある。初代の石坂康倫校長、二代須藤勝校長、三代小林洋司校長は、府立の良さ、都大附高の良さを強く言っておられ、校旗、校歌、校章を引き継いでいることに誇りを持っておられる。そのため「八雲が丘学友会」をつくって府立、都大附、桜修館の同窓会のゆるやかな連繋をと提案されたがこれが理想的な形といって良いだろう。府立も都大附も異存はなく総会でも承認された。現在、桜修館同窓会は発足しておらずPTAの方が代行の形で学友会の会議には出席されている。府立の同窓会の幕引きも間近である。当分はわれわれの同窓会が中心とならざるを得ない。今年の総会では執行部の若返りが提案され、平成二四年四月に予定されている総会で正式に若返ることになっている。その頃には桜修館も一期生が出る。桜修館の五期生、十期生が出る頃には桜修館同窓会の基盤も固まり「八雲が丘学友会」も変わってくるだろう。第二代の須藤校長と笹副校長が提唱された「八雲が丘文庫」とは、府立と都大附の卒業生が著書を寄贈し、図書館の一角に納められているものをいう。提唱者は桜修館の生徒が自分達の先輩の著書を手に取り、先輩の偉業を励みとすることを狙ったものだが、年々増えるに違いない。同窓会諸氏にはぜひ著書を寄贈していただくようお願いしたい。

終りに

 いずれにしても昭和四年に開校した旧制の府立高校が、戦争を境にして変革し今日に至っている。校名は変り、組織も変ったが、校旗・校章・校歌は変らない。そして伝統も脈々と息づいているといってよいだろう。都立大附属高校同窓会も、社会の変動にゆさぶられながらなんとか今日に至っている。府立が消えわれわれが消えても桜修館はつまらない学制改変がなければ残るに違いない。個人の個性や特長を伸ばせるような自由と自治の精神は受け継いでいってもらいたいと願っている。



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