昭和十九年七月、サイパン島玉砕。当時の佐々木順三校長は朝礼で「戦争は間もなく終るだろう(言葉には日本は負けるという意味が含まれていた)。学問は自由である。諸君は学問に励み、真理を探究せよ」と静かに語られた。日本刀を持ち出す学生はいたが、多くの学生・生徒は静かに聞いていた。真理の探究、自由と自治の伝統は戦争中でも生かされていた。
戦後の学制改革で、旧制の府立高等学校高等科は都立大学に、尋常科は同附属高等学校になった。
昭和二一年に旧制最後の尋常科一年生が入学してきたが、六年後に卒業し、都立大附属高の二期生ということになる。この間昭和二四年には都立大学が設置され、初めて二期生のクラスに女子二〇名が編入し八雲が丘の雰囲気は変わった。大学にも高校にも女子がいる。当時われわれは都立高校附属大学などと呼び、母家を取られた不満を顕にし小競り合いが絶えなかった。
旧制府立の同窓会はしっかりしたものであったが、新制のわれわれは同窓会を新しくつくらなければならなかった。われわれ一期生が尋常科四年の時、同窓会は必要だから在校中に同窓会費を積みたてようと提案し森脇大五郎校長に頼んだが、なかなか埒が開かない。卒業してしまえば会費はまず集まらないから運営が困難となると言っても暖簾に腕押し。昭和二五年二月に都立大学から来られた第二代の小笠原録雄校長にその事をお願いしたところ「それはいいね。そうでもしなくては会費は集まらないでしょう。それにしても君達の発想はすごいね」と言っていただき、その後学校の事務が毎月同窓会費を月割で集め卒業時にまとめて同窓会に振り込んでもらえるシステムができ、それが今日まで続いていた。故小笠原校長、歴代の事務担当者には感謝してもし切れない。
初代の森脇校長が世界的な遺伝学者であることを知ったのはずっと後のことだった。
初代の同窓会理事長には私がなったが、十年程して若手が引き継いだ。その後も同窓会は続いていたようだったが、昭和四二年以降学園紛争の波が全国に拡がり、母校も第一次第二次の学園紛争へとエスカレートしてゆく。校長室、教務室等の封鎖や校舎の封鎖もあって校内は混乱を極めた。その頃、斉正子先生から私の所に電話があり「今の学校は危機的状況で内野さん何とか一度学校へ来て見てちょうだい。同窓会で何とかして欲しいのよ。」ということだった。校庭の西隅に建てられた木造校舎が封鎖され、上階に陣取った生徒が下を通るわれわれに水をかけてくる始末。斉先生の目の色が変わっていた。同窓会の活動は全く無くなっていて乱脈を極めていた。
斉先生が言われたことは「紛争は治まるだろうから、同窓会を再建して欲しい」ということだった。これは何とかしなくてはならないと再建することになり、一期から十期ぐらいまでの理事評議員が集まり、斉先生も同席されて再建が始まり今に至っている。しかし、会報を出すことになって、原稿を担当者に送っても会報が出ないし原稿が紛失することもあり、なかなか軌道に乗らない。これも皆が忙しく、働き盛りの人達だったので止むを得ないとは思っている。
同窓会は名簿を発行して同窓生の情報を共有することが大切な仕事である。しかし紛争時代の卒業生の中には名簿から削除してくれという人もいた。そういう気持を持つことは、その学校を卒業した履歴は一生消えないのだから不幸なことである。このことについて理事会、評議員会で検討し総会で決議した点は、卒業生名簿という面があるので姓名を削除することはしない。しかし最終学歴、住所、勤務先などの掲載の拒否は個人の自由とすることになった。
最近は四期の野口貞義君のお陰で名簿や会報が順調に出ている。深く感謝するところである。そして十期台の人々が今は中心になり支えてくれている。
平成二三年三月をもって東京都立大学附属高等学校は閉校となり、四月からは東京都立桜修館中等教育学校が一年生から六年生まで八雲が丘のキャンパスを埋めている。今年の記念祭では演劇、展示など高度なもので、才気が感じられる。やはり伝統は生きているし、血は争えないと感ずる。
桜修館の校是は「真理の探究・高い知性・広い視野・強い意思」である。われわれの「真理の探究、自由と自治」と通ずるものがある。初代の石坂康倫校長、二代須藤勝校長、三代小林洋司校長は、府立の良さ、都大附高の良さを強く言っておられ、校旗、校歌、校章を引き継いでいることに誇りを持っておられる。そのため「八雲が丘学友会」をつくって府立、都大附、桜修館の同窓会のゆるやかな連繋をと提案されたがこれが理想的な形といって良いだろう。府立も都大附も異存はなく総会でも承認された。
現在、桜修館同窓会は発足しておらずPTAの方が代行の形で学友会の会議には出席されている。府立の同窓会の幕引きも間近である。当分はわれわれの同窓会が中心とならざるを得ない。今年の総会では執行部の若返りが提案され、平成二四年四月に予定されている総会で正式に若返ることになっている。その頃には桜修館も一期生が出る。桜修館の五期生、十期生が出る頃には桜修館同窓会の基盤も固まり「八雲が丘学友会」も変わってくるだろう。
第二代の須藤校長と笹副校長が提唱された「八雲が丘文庫」とは、府立と都大附の卒業生が著書を寄贈し、図書館の一角に納められているものをいう。提唱者は桜修館の生徒が自分達の先輩の著書を手に取り、先輩の偉業を励みとすることを狙ったものだが、年々増えるに違いない。同窓会諸氏にはぜひ著書を寄贈していただくようお願いしたい。
いずれにしても昭和四年に開校した旧制の府立高校が、戦争を境にして変革し今日に至っている。校名は変り、組織も変ったが、校旗・校章・校歌は変らない。そして伝統も脈々と息づいているといってよいだろう。都立大附属高校同窓会も、社会の変動にゆさぶられながらなんとか今日に至っている。府立が消えわれわれが消えても桜修館はつまらない学制改変がなければ残るに違いない。個人の個性や特長を伸ばせるような自由と自治の精神は受け継いでいってもらいたいと願っている。
(本文章は、平成23年12月号の同窓会報誌からの転載です。)