記念祭について

岩間 そのころの記念祭はどんな雰囲気でしたか。

喜多 記念祭じたい、すごい負担なんです。入学してきて、まずあれで洗礼を受ける。早くから準備を始めますからね。 夏休みがフルにそれにかけられる。

 記念祭も、おおづかみにいうと、最初は旧制的な雰囲気で始まる。 たとえはフォークダンスが入ってきたときも、最初はだいぶ抵抗があった。 どこかのクラスで釣り堀を催物に出したところ、これもかなり抵抗感があって、最後まで批判されていました。 そのうち、だんだん模擬店などもふえてくるのですが、簡単に受け入れらていかないような、自分のほうに何かを持っていないとやれないみたいな雰囲気は、少なくともかなり長い間あったようですね。

 わりと自由なんだけれど、たとえば、「参加する」「なぜ参加するんだ」、「参加しない」「なぜ参加しないんだ」と問われているような気が、生徒はいつもしていたんじゃないかと思います。 ですから、自由だといっても手放し自由放縦というのではなくて、責任を追及されるような雰囲気はありましたね。

 たとえば、ファイアーのとき薪が足りなくて、外のをとってきて焼いた事件があります(笑)。そのときも、外から文句が来てちょっと問題になり、木造校舎の中庭で何回か生徒大会を開いた記憶があります。 それも、学校対生徒という問題ではなくて、内部の、生徒の中の問題として論じあっていたというのを覚えています。

 ですから、あの学校に来て、記念祭、修学旅行と、学校行事ごとにそういう個人が主体をもっていないと、非常に行きにくい学校だったんじゃないか。 ですから、大学に入っても、あまり開放感がないというのです。 高校のときもすでに開放感というのか大人の世界というのか、自由と責任、自治みたいなことの洗礼を受けているので、そういう意味ではむしろ大学の方が拘束されている、と言えば言いすぎですが、小粒に見える、みたいなことを言っていました。

岩間 そうすると政治的な関心もシャープなものがあったのですか。

小野 記念祭執行実行委員会と自治委員会と校友会の三本立てなんです。 だから、シャープに政治的な関心が出てくるのは自治委員会とか校友会です。 記念祭はむしろ、もっと生徒全体に密着しているかたちでしょう。 だから、クラスマッチで都高生らしくなる。五月です。 四月の始業式から、「今年の課題は何だ」と生徒課の先生は言うし、生徒のほうもそういう覚悟で考える。 自治委員長選挙、記念祭委員長選挙といくたびごとに、多少次元が違うかもしれないけれど、自治委員会でも問題にするし、記念祭組織を作ればそちらのほうも問題にする。 今の課題は何だ、と。 それは社会的な課題だけではなくて、自分たちの課題です。これがやはり主流にあったんじゃないんですか。

岩間 そうすると、喜多先生がおしゃったように、ぼやっとしていたら学校にいられない雰囲気があったのですね。

工藤 それはありましたね。ぼくが記念祭を始めて経験したときに驚いたのは、よくこれだけ生徒が企画し、運営するものんだとつくづく感じました。 五百人足らずの少ない生徒だからということも考えられますが、校舎のほうは各部が全部やっていますね。 山岳部は過去一年間の記録を発表し、外でテントを張って、来た人にライスカレーをサービスする。 さらに、ほとんどのクラスが演劇をしましたね。 演劇も、考えると思想的な内容だったと感じます。

 各クラスで演劇をやり、校舎でそれぞれ部活動をやりますから、さぼることができないのです。 さぼったりしていると、自分から村八分になってしまう。 ですから、どこかしら頭を突っ込む。

 驚いたのはファイアーです。伝統だというので、どんなファイアーをするんだろおうと思ってみていたら、電柱を立て、そこにさらに大々的に作った舞台装置を全部重ねますから、すごい炎なんです。 あのころ許可になっていたのかどうか知らんけれど。記念祭で付属高校という、それが身につくんだと言われていましたが、ファイアーが実施されたことだけで、当時の生徒は誇りを持ったんじゃないですか。

喜多 いまもあるんでしょう。

岩間 あります。

工藤 まわりの関係で小規模になっていますが。そこでファイアーをやり、女子生徒が来たから、女子生徒も中に入れるということでフォークダンスもとり入れましたが、火をつけて少し騒ぎだしますと、卒業生が来ているいんです。 僕よりみんな上のような感じの人たちがファイアーの中に入りまして、演説をするのです。 現役に励ましの言葉というのが必ずあるのです。 たるんでる、もっと何をしなきゃいかん、とか。 その演説を聞いているときの現役はシーンとなるのです。 うるさいと、あとでどやされるからだなあ。 それが一通り終わって、卒業生が三々五々帰ったあと、フォークダンスをやって、記念祭を終わる。

 終わったあと、都立大、自由が丘あたりで騒ぎますと、住民がうるさいし、学校に迷惑がかかる。それで、すぐに多摩川べりに行ったようですね。 一夜を語り、歌い過ごしたと、後になって聞きました。それが何年くらい続いたか。

 いまの生徒たちの考え、精神的な発達を見ると、その当時とは雲泥の差があったような気がします。

安食 ファイアーは旧制からあったんですか。

柴田 知らないけれど、あるにきまってますね、どこだって。

小野 旧制の火が消えたところ、戦後、火をともした、それが一つの平和のシンボルというとで意識されていたのです。

柴田 あのとき小笠原さん(編者注:小笠原録雄第二代校長、在職期間:1950年2月24日〜1956年6月2日)がいて、脇で松さんが例の太鼓をたたくのです。 松さんが前からの都立高校時代の猛者なんです。脚が悪いのにやるのです。だから、あれは名物でしたよ(笑)。

岩間 あのあと、ずっと自治会がやっていたようです。

柴田 記念祭が終わりますと、女の子たちもおりますので、男の子たちがたいていの女の子を送り届けるのです。 そういうふうにしろと、こちらかも言ってあったのですが。 そうしたら、自由が丘あたりでとっつかまったのです。与太者か知りませんが、アベックと因縁をつけられたのです。

 そこでその男の子が大演説をぶったらしいですよ。記念祭の意義を説いたらしいですよ。訓練されていますからね。 そうしたら、ほうほうほうのていで、「そうか、そうか、わかった、わかった」と逃げちゃったという話を聞いています(笑)。 しっかりしていたんでしょうね、あの迫力で逃げちゃったと思うんです。

小野 こと記念祭のときに限らず、附属高校の生徒は外から見ればわかる、そういう風格を持って居るんです。 だから、柴田先生のところに遊びに行った子が、奥さんが買い物に行って、ああ、あの子はうちへ来る子だとすっとわかったという話をしていらっしゃったけれど、どことなしにピリッとしていて、隙がないというのか、スマートというのか、どんな条件が出てきてもパット対応するというものが日常にあったのです。 うちの近所の高校の生徒を見ても、どこか抜けているなという感じがするときが多いんだけれど、そういうものと反対の、輪郭のある人間、そういう風格が自然にあったのです。 それがいまのような話あらわれてくるのです。

柴田 女房までほれこんじゃったんですよ(笑)。

岩間 社研の活動も盛んでしたか。

小野 展示なんかもしっかりしていたね。近所から来る人に説明するときでも、再軍備問題をやっていたとき西独の再軍備をきちんとひいて、日本の思想情況と対照してね。あれは一九五五年ごろですか。

 はじめのうちは部が主で、クラスに基礎を置いていないから、さぼる子もいるんです。 だから、いかにしてクラスに基礎を置くか、これが初期の時代の一つの生徒自身の課題だったんじゃないです。 それで、演劇をクラスで出すということになった。 一番盛んだったころ、ほとんどのクラスが演劇を出して、近所の人や父兄にもたいへん支持されていたんじゃないかな。

 
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