私の都高勤務は、一九六五年四月から八五年三月まで、ちょうど二〇年間である。
えらくごろのいい勤め方をしたものだと、他人事のように感心している。
最初に担任したクラスについて、力みすぎてうまくいかなかっただけに、ほろ苦く思い出すことが多い。
かれらが三年生のときの、一九六八年一〇月二一日、私は校庭での国際反戦デー生徒集会で、厳しくつるしあげられた。
その数日前、私は、クラスの「なんとしてもパイロットになりたい」男子生徒に、航空大学校に入学できない場合は自衛隊からパイロットになる方法もあるそうだよと話していて、そのことが反戦デーのかっこうの餌食にされてしまったのだった。
その直後に新宿駅周辺での米タン闘争(編者注:米軍燃料輸送タンク車阻止闘争)があり、明けて三月、自治会と私たち担任団が協議を重ねて企画した卒業式は、反戦に沸き立つ生徒たちのバリケード封鎖で粉砕されてしまった。
このあと、いくつかの都立高校で紛争が本格化することになる。
甘酸っぱい思い出は、二〇年間のそれぞれの代の、担任クラスの生徒諸君や、水泳部、野球部、天文気象部、文芸部の部員諸君とのつきあいの記憶の中に、無数にある。
生徒諸君と夏の館山連峰や春、秋の谷川岳に登ったこと、毎年三月、志賀高原、八方尾根、蔵王、八甲田山、ニセコなどへスキーに出掛けたこと、それに地学実習、野球部や天文気象部の合宿も忘れがたい。
野球部とは一三年間つきあい、一時期には監督までやらせてもらった。
野球部に関しては、むしろ私のほうが部員諸君にお世話になったと思っている。
先日、旧制都立卒業の某都立高校長に「久野さんも都大附の卒業生だったね」と誤解発言をいただき、えも言えぬほど嬉しかった。
都高を語るなら、私も気分は卒業生。
かくなる上は、同窓会費を請求してもらわなくっちゃと、本気で考えているのである。