練習で使えるボールはチーム全員で2個。グランドの半分は草茫々。
高校からボールを蹴り始めた部員が僅か十数名。
でも、チームワークは抜群で、都の大会ではベスト16を窺える力があった。
部室には「サッカーは棘のあるチューイングガムか。
噛めば噛むほど味なき味が。プッと捨てれば未練が残る。」
などと書かれた旧制時代の部誌が残っていて、汗臭い泥臭いサッカーをした。
そんな小生だが、選手(全日本3位)、審判(国際審判員)、審判指導者(インスペクター、インストラクター)、
Jリーグマッチコミッショナーなど、70才までサッカーと共に充実した人生を送った。
2年前に暇になり、蹴球部OBの名簿作成を試みたが、住所欄が空白の同窓会名簿を見て呆然。諦めた。
時代が移り、学校の名誉も変わるが、現役諸兄が全国大会に進出して、寄附の依頼が来る日を、八雲ヶ丘で育ったOBとして夢見ている。
ご本人も本文でサッカー界での活躍を綴られておられますが、
本校を卒業された後は、東京大学に進まれて、サッカー部の主将、卒業後は監督も務められて後輩の育成に当たられていたようです(東京大学のサッカー 闘魂90年の軌跡 2008年12月19日)。