昭和二十年、無条件降伏を控えた春の終わり。東京は連日連夜の空襲にさらされ、学校の校舎こそ焼け残っていましたが、明日をも知れない運命。日本の多くの町が焼け野原になっていった時代、大勢の人が死に、学校での授業は全面停止とされた時代、それなのに「平和」の二文字を口に出しただけで罪人とされた時代、そのような時代に創られた歌です。
軍や警察に指弾されないよう、歌詞はことさら難しい漢語を使って韜晦し誤魔化してはいるものゝ、仔細に、注意深く読めば、戦火が迫り、道義も地に堕ちた闇夜のような日本の現実を憤り、我らが立って、この八雲が丘から警世の鼓鐘を響かせよう、声なき声を広げよう、と必死に叫んでいる作者の姿が、また、その歌を共に歌う都高生の表情が、容易に見て取れるでしょう。
当時の生徒の一人はこの歌について「身も心も浸りきって歌える唯一の歌」であり、「心の歌」として愛唱した。「数千に及ぶ旧制高校のどの名歌にも勝る、本当のぼくらの青春の歌だ」と語っています。
その通りです。誰がそれを否定などできましょうか。
昭和二十年(1945)年、戦いに敗れた年の空。
都立高生にも戦争で親兄弟を失くした者、戦災で家を失った者は多く、すべてを失くして毎日の食べ物にさえ事欠いたのでしたが、ただ、希望だけは今よりもはるかに大きいものを抱いていました。自分たち生命力、青春の感受性、可能性豊かな人生、自分たちが新たに創ってゆくべき自由な日本の社会、そして、そのために勉強を支え育んでくれるわが母校都立。この明るい気持ちをそのまま、ためらうことなく謳い上げる歌が「挙げよ盃」なのでした。
元々はドイツ学生歌だったらしく、アメリカメイン州立大学の学生歌となっていたこの歌。音楽評論家・堀内敬三が息子の在学していた都立のために訳し、記念祭のクラス合唱で歌われるや、たちまちキャンパス中に広まり、これを都立の学生歌として頂戴することになったのです。パクられるほどに良い歌であることを証明され、メイン大学もさぞ喜んでいることでしょう。
昭和二十一年インターハイ、都立の応援団はこの歌を引っ掲げて他校を圧倒、バスケット部を全国優勝に導いたのでしたし、当時のコンパでは、難解でも繰り返しが自由なこの歌をみんなで歌い、スピードを上げて早口の箇所を懸命に発音しつつ果てしなく続け、ついには倒れるまで歌うのが常でした。
酒に酔って倒れるのではない。この盃に入っているのは酒ではなく、青春であり、青春の志であり、我らが母校なのです。
このDVDでは、余計なところで「おゝ」が入り、少々通俗にしているのが残念です。