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三善晃さんを偲んで


作曲界の重鎮 三善 晃氏「昭和24年尋4A終了」逝く

                 平成25年10月4日没 享年80才

 昨年夏以降相次いで全国各紙に、府立の同窓生の詳細な訃報が写真入りで掲載されましたが、8月の高橋元さんに続いて、10月には三善晃さんの記事でした。 

 高橋さんが戦後官界のトップとして活躍されたのに対し、三善さんが全く違う音楽の分野で日本のみでなく、世界に知られた天才だったことは、府立出身の人材の裾野の広さを示すものとして誇りに思います。 しかし三善さんも尋常科時代は、講堂のステージ脇の小部屋にあったアップライトのピアノで、暇さえあれば一心不乱に練習していた姿が想起され、その後フランス政府給費学生としてのパリ国立高等音楽院留学を経て開花された才能は、八雲が丘でひそかに育てられていたものかと思われます。 

 彼の作品は「レクイエム」「詩篇」「響紋」の代表的三部作をはじめ、オペラや合奏曲などクラシック音楽のあらゆる分野に多数残されていますが、合唱コンクールの課題曲も数多く、教育者としても立派な業績を残し、日本芸術院会員として文化功労者になっており、フランス政府からも文芸勲章を贈られています。 府立の同窓生仲間の中で最も若い世代の80才という年齢で逝去されたのは残念でなりませんが、数多く遺された楽曲の作者としての三善晃氏が、都立高校の尋常科と都大附の第一期生として、八雲が丘で同じ校歌を歌い記念祭歌の作曲もしていた事実を、桜修館の諸君に語り継がなければなりません。(山田早苗記)

◎;寄稿 三善晃君の凄まじい闘病の日々まで                       尋4A 内野滋雄

 ある年の記念祭の委員長が私と決まり、副委員長を選ぶ時に三善がいいと切り出したが、周囲から彼はそういう役には向かないと反対された。しかし頼んだところ、二つ返事で引き受けてくれた。彼は、私にブレーキをかけるのではなく、何か言おうとしている者をつつみ込んで良い方向に向けてくれた。最高の女房役だった。桐朋音大の学長を長く務め、東京文化会館の館長を務めた技は15、6才の頃にはあった。枝というより、人を引きつける人徳のようなものだった。

 ある時学校の帰りに私の家に寄っていつまでも帰ろうとしない。彼は家出してきたという。その頃は心を許し合える仲となっていた。彼は晩婚だったが、結婚式に呼ばれた尋常科の友人は私一人だけだった。

 2002年、私が設立した社会福祉法人三徳会の20周年記念の折に、三善晃と養老孟司による文化対談「人間を語る」を行った。司会の私は、文化系と理科系の二人の共通点を、人並外れた素晴らしい頭脳の持ち主、その上、努力家、勉強家で博識であると述べ、更に、非常に掘り下げて物事を考える、人間というものを深く考えている。堅くなくユーモラス。このように二人を紹介した。二人の話は、エベレストの頂上を目指すルートとして南壁とか北壁とかからの登頂の違いであっても頂上は同じという面白さがあった。

 彼は10年程前から難病にとりつかれた。小脳の変性で運動機能が徐々に低下してくる。うまく歩けない、物を落とすなどと連絡があった。彼や奥さんからは、病名、病院名は誰にも言わないでと堅く言われた。それでも作曲や音大の若手や学生の指導は続けていた。徐々に電話の話が聞きずらくなり、家で転んだり2階に上れなくなってきた。這うようにして病気の進行を止める効果があるというものに挑戦していた。

 何が欲しいか何を食べたいかを聞いて送ったりしたが、美食家だった彼が、うまいというものが昔と大違いなのには悲しかった。見舞いに行くと彼は嬉しそうだったが会話は断片的で、こちらの言うことと、私と奥さんの会話は楽しんでいたが、20分もするとうとうとする。誰かに会いたいかと聞いても首をやっと振りノーとの答え。ある時やっと野口洋二の名前が出て一緒に行ったが会話はできず、目だけで喜んでいた。そういう状態でも何とか自分で手足を動かし回復のための努力を続けていた。幼稚園で使うような大きな文字盤をこちらで指すことで話をした。こちらの言うことは理解していた。この凄まじい闘病の精神力には全く頭が下がったが、それが同じ病気の人の何倍も生きた原因だろう。

 クラス会がある度に三善はどうなんだ、どこに入院しているのかを大勢のクラスメートから聞かれたが、クラスの中で秀才は多くても唯一の天才との約束は守った。

 彼は元気な頃に求め、住職とも親しくしていた軽井沢の墓地に葬られることになっている。

◎寄稿  三善晃君を偲んで         23年理4 皆川達夫

 三善晃君が世を去られた。日本の、いや世界の音楽界にとって大きな損失である。彼は東大の学生時代から作曲家として頭角を表わし、独特の書法による作品を次から次と送りだしていった。その合唱作品は全国の合唱団にとって不滅のレパートリーであり、支倉常長を題材にしたオペラは今年再々演が予定されている。更に多くのすぐれた後進を育成し、桐朋学園学長、東京文化会館館長として教育面、文化行政面での貢献も大であった。

 府立以来、彼は同じ道を歩む先輩として私をもり立ててくれ、ある時は互いに敬意の念をもって、ある時は互いに皮肉を交し合う仲であった。府立の記念祭のおり私は、彼を女形(シラー作『ドン・カルロス』のエヴォリ公女)に仕立てて演技指導した。それから彼は事あるごとに、「皆川さんはボクに、女ってもんはこうやって笑うんだよと教えてくれたんだ。ウフフフ・・・・・」と、ジェスチュア入りで言いふらされて閉口した。彼の人なつっこい笑い顔は、今なお私の心の中に生き続けている。三善君、もう一度戻ってきて、あの笑い顔を見せ、新しい作品を聴かせてくれたまえ。

◎寄稿  三善晃君の想い出(尋常科時代) 

                    尋4B 川口(旧姓 福田)幸夫

 昭和20年8月15日戦争は終り、貧しいながらも日本に自由の風が吹き始めた頃、14-15才で私は彼にヴェルレーヌ、ボードレール、さらに彼が好きであった早熟、早世の詩人アルチュール・ランボウの詩の幾つかを教えられた。これは戦時中ガリ勉小学生だった私にとって目からうろこが落ちた思いで、その後、阿佐ヶ谷の彼の家を幾度か訪れ交友が深まるにつれ、彼が音楽はもとより、文学、絵画、更には演劇にも人並以上の豊かな才能を有していることを知り、彼に対する敬愛の念は一層深まっていった。

 このような年月の流れの中で、最も強く印象に残っているのは昭和21年頃、日本の家庭では希であった自宅でのクリスマスパーティーを三善家では毎年、子供達を中心に行っていたことで、子供達--兄弟・2姉妹が各々招待したすてきな仲間達が集い、屋内をデコレーションで飾り、音楽を奏で、ともに歌い、笑い、この上ない楽しさに時が経つのも忘れ、夜白々と明けるまで続いた。

   「かつては、もし俺の思い出がたしかならば 俺の人生は祭りだった あらゆる心が開き  あらゆる酒の流れた祭りだった・・」  アルチュール・ランボウより

 良き友として私の青春に大きな驚きと喜びを与え、その後の人生にも前向きの影響を与えてくれたことに心から感謝している。65年余の歳月を経た今でも目を閉じれば、色白でハンサムな少年時代の彼の顔が浮かんで来る。三善晃君のご冥福を祈り、ご遺族の皆様方に心からお悔やみを申し上げます。  合掌

※「府立高校旧友会報」より了解を得て、転載させていただきました。