ある年の記念祭の委員長が私と決まり、副委員長を選ぶ時に三善がいいと切り出したが、周囲から彼はそういう役には向かないと反対された。しかし頼んだところ、二つ返事で引き受けてくれた。彼は、私にブレーキをかけるのではなく、何か言おうとしている者をつつみ込んで良い方向に向けてくれた。最高の女房役だった。桐朋音大の学長を長く務め、東京文化会館の館長を務めた技は15、6才の頃にはあった。技というより、人を引きつける人徳のようなものだった。
ある時学校の帰りに私の家に寄っていつまでも帰ろうとしない。彼は家出してきたという。その頃は心を許し合える仲となっていた。彼は晩婚だったが、結婚式に呼ばれた尋常科の友人は私一人だけだった。
2002年、私が設立した社会福祉法人三徳会の20周年記念の折に、三善晃と養老孟司による文化対談「人間を語る」を行った。司会の私は、文化系と理科系の二人の共通点を、人並外れた素晴らしい頭脳の持ち主、その上、努力家、勉強家で博識であると述べ、更に、非常に掘り下げて物事を考える、人間というものを深く考えている。堅くなくユーモラス。このように二人を紹介した。二人の話は、エベレストの頂上を目指すルートとして南壁とか北壁とかからの登頂の違いであっても頂上は同じという面白さがあった。
彼は10年程前から難病にとりつかれた。小脳の変性で運動機能が徐々に低下してくる。うまく歩けない、物を落とすなどと連絡があった。彼や奥さんからは、病名、病院名は誰にも言わないでと堅く言われた。それでも作曲や音大の若手や学生の指導は続けていた。徐々に電話の話が聞きずらくなり、家で転んだり2階に上れなくなってきた。這うようにして病気の進行を止める効果があるというものに挑戦していた。
何が欲しいか何を食べたいかを聞いて送ったりしたが、美食家だった彼が、うまいというものが昔と大違いなのには悲しかった。見舞いに行くと彼は嬉しそうだったが会話は断片的で、こちらの言うことと、私と奥さんの会話は楽しんでいたが、20分もするとうとうとする。誰かに会いたいかと聞いても首をやっと振りノーとの答え。ある時やっと野口洋二の名前が出て一緒に行ったが会話はできず、目だけで喜んでいた。そういう状態でも何とか自分で手足を動かし回復のための努力を続けていた。幼稚園で使うような大きな文字盤をこちらで指すことで話をした。こちらの言うことは理解していた。この凄まじい闘病の精神力には全く頭が下がったが、それが同じ病気の人の何倍も生きた原因だろう。
クラス会がある度に三善はどうなんだ、どこに入院しているのかを大勢のクラスメートから聞かれたが、クラスの中で秀才は多くても唯一の天才との約束は守った。
彼は元気な頃に求め、住職とも親しくしていた軽井沢の墓地に葬られることになっている。