私の決心に油を注ぐような出来事がありました。
腎臓炎を再発し、三楽病院に入院した時のことです。
生物班を中心とした尋常科の生徒達が、「もし先生が死んだら、みんなで棺をかついで校庭を走りまわる。」と言っているという話を聞き、感動しました。
自分の生命をこの生徒達に投げ出しても惜しくないと思いました。
長い戦争と敗戦による荒廃の時代は、そんなに生徒達の心を傷つけてはいませんでした。
学ぶことへの情熱、友達との友情、それに一高学生指導部長から赴任してこられた佐々木順三校長による『自治と自由』の提唱は、附属高校の理念として伝承されていきました。
生徒達は優秀でした。学ぶ時と所、それに指針や助言が与えられれば、自分で成長していくものだという事を学びました。
文部省も教育庁も学校教育課すら存在しなかった時期に、ただ担当教師に任せきった自由な空気の中から、文化勲章受賞者(国立がんセンター総長)杉村隆氏が出たり、二本の経済の中心的仕事をする人々が多く輩出しました。
最近、臨教審で討議されていますが、管理教育が生徒の発展の芽をつんでしまう愚かさをつくづく感じます。
先生達も優秀な人が多かったようです。
しかし、昭和四十五年頃から十年間に及ぶ学校紛争で古い先生達が学校をやめられて、昔を知っているものが私一人になりました。
日本の教育の中で、旧制高校の存在は高く評価されています。
その中で一人一人が間違いのない生き方を作り上げ、今日の日本を開花させました。
新制都立大附属高校は、それを伝承しながら、またそれに加えて個人を集団の団結に昇華していきました。
昔のよきものを後に伝えたいと私は、学校に一人居残りました。
学ぶ時、常に本質に問いかけ、暖かく豊かな人間性を求め、互いに助け合う友情の中で、いじめっ子の問題などを抱えることもありませんでした。
私は、この学校に務めてきて幸せでした。
こういう学校が存在したことを書き残したいものです。
先日、六月七日に卒業生の皆さんが集まって、中野サンプラザで私の為に退職記念パーティーを開いてくださいました。
都立高校へ赴任した時のお医者さんや歌人の方たちもきて下さいました。各地から集まったさまざまなの年代の卒業生の一人一人に深い思い出がありました。
幼な顔が重なり合い、若者達の姿が彷彿として、自分の一生の絵巻物を見る思いがしました。
どの眼差も暖かく、人間のこういう信頼の中にあって生きてきたことの幸せをしみじみ味わいました。
これからは、私も同窓者の一人です。
この小文が仲間に入れて頂ける挨拶なれば幸いです。
本当にありがとうございました。
昭和六十年六月