昭和六十年三月、私は東京都立大学附属高等学校を退職しました。
当年七十四歳です。昭和週八年に旧制都立高校の教師となりましたので在職は四十二年になります。
初めて教壇に立ったのは、昭和七年でしたから教師生活は五十三年になりますでしょうか。
その間、職場は三回変わりました。はじめのが東京の私立京華高女で八年、次が母校の国立女高師(現お茶大)の助手、最後が七年制都立高校でした。
柿ノ木坂の旧称衾町の今の職場に新校舎を構えてから十年ぐらいしかたたない若い都立高校への赴任でした。
当時は、女子は国立大学や旧制高校や男子師範学校には、入学が許されませんでした。
勿論、専任の教師としても採用されない男尊女卑の時代に、助教授として赴任できたのは、太平洋戦争で男子教師の手が足りなくなった為だと聞いています。
昭和十八年四月に採用でした。学校は、現在の大学A棟の校舎でした。
二万坪の運動場は広く、敷地の草むらには三メートルもある青大将や大きなヒキガエルが沢山群がっていました。
全校生徒が校庭に整列すると、小学校から入学したばかりの童顔の尋常科の一年生から、髭面の高等科三年生までが並んでいて見事でした。
全員バリカン刈りの丸坊主でした。
日増しに敗戦の色が濃くなり、空襲で東京の町々が焼かれるようになって、人々の心も崩壊を始めました。
昭和二十年八月十五日を境に、みんなで支えあってきた精神的支柱が倒れ始めました。
誰もが飢えに苦しみました。
先生達も教えることよりも芋作りに必死でした。
社会の秩序はその骨格失って日々荒廃していきました。
ある日、私は東横線の渋谷駅のホームで大きな輪を作っている群衆を見ました。
電車から降りて近寄ってみると、二人の男を取りまいて七−八人の男がなぐりつけているのです。
丸太棒で後から力まかせに殴られて倒れた男の頭を、頼まれてマフラーで縛ってやった私の指さきに、頭の骨一部がグジャグジャに崩れ、その奥の柔らかい脳がふれました。
この時私は、見て見ぬふりする利己主義的な群衆にすごく腹をたてました。
あの純粋で理想に燃える生徒達に、こんな群衆になって欲しくない、心の温かい人間性に満ちた人に、そして社会の再建に役立つ人になって欲しいと思いました。
こんな願いを誰がやるだろうか。
私は、教育の世界に次第に深く身を沈めていくのを感じました。