文科系のクラブは必ずしもそのクラブの内容に強い興味を抱いているものばかりで構成されているわけではない。
美術部も所属する場所を求めて入部するものが多い。
運動系のクラブや吹奏楽部のように、集団で活動することが絶対条件のクラブは厳しい上下関係の下に生き、常に頑張ることが要求される。それはそれでいい。
ただ、美術部とはそういう生き方と違う何かを求めて生きる集団である。
その何かとは、華やかなプレーや演奏やパフォーマンスで観客を喜ばせ、拍手喝采を得て、その共感を自己の喜びとすることではない。
ひたすら自己の意識の内に沈潜して一人で黙々と作業をし、それを生きた時間の証とする。ある意味では文学青年の生き方である。
そのため「活躍」という言葉は必要としない。教師は親は何らかの活躍を求めるかもしれないが美術部の生徒はそれよりも充実した一人の時間を過ごすことを目的としている。
寡黙な生徒が描いた四〇号の油絵を高等学校文化連盟の美術部門に出して東京都の代表に選ばれたこともあるがその生徒は決して代表になるために描いたのではなかった。
言語活動の苦手な生徒は言語を線と色彩に置き換えて自己表現をしたただけであった。
オリンピックを頂点としたスポーツ界のランク付けや序列化は、今やスポーツ界だけにはとどまらず、ありとあらゆるものにまでに適用され、マスコミもそれを煽ることで糊口を濡らしている。
総ての事において上位を目指すことを目的に生きるとはなんとも安易な生き方であろうか。
教師もその生き方において生徒に上位を目指すことを叱咤激励することが仕事のように思われている。
その中にあって美術部の生徒の存在は私にとって安息の場なのである。