当会については「七〇記念誌」に「なぜネパールか」以下の拙稿がある。
その後の一〇年を述べる前に、重複を顧みず、設立の契機を作った故伊藤邦幸医師(昭和二六年卒)の言葉を引用する。
「私自身を作り、生涯を決めたところ。後に東大と京大にへ行ったけれど、それはここ都高で教えられた精神<自分の受けた幸福を自明なことと思ってはならぬ(シュバイツァー)>を実行するためだったように思う」。
ところが思いがけない死(脳梗塞、享年六二歳)。私たちは伊藤さんの意志を継ぐことにしたのである。
一.「ネパール会バザー」
体育科や理科、生徒の家庭からボールや文具、顕微鏡の提供を受け、送ったり背負ったりしてS校へ、後年、村へ中古衣料を贈った。
一時期、都立大祭と、自由が丘祭にも出展した。都立大職員方、父母会、学年会からも多くの厚意が寄せられ、平成二〇(二〇〇八)年記念祭には校内イベント部門優秀賞を受けるほど「ネパール会バザー」は学校に定着した。校内のみで全一五回。
会員は最多時は五〇〇人、その後、学級数削減と異動と定年により校内の「核」的教員を失い、現在は半数にとどまる。
二.恒見さんんとの出会い
S校支援は一二年間で終了して、中部地方で活動する恒見さん支援へと対象を絞る。
中国語講師Kさんを介した出会いであった。
元教師の恒見さんは平成五(一九九三)年からドリマラ村を拠点に、電気も水道もない小屋に住み、村々を巡り、村人の声を聞き、彼らと強い信頼関係で結ばれていた。
在村一〇周年記念を村人が企画し、祝賀会には郡下から一万人が集まり、当会からも三人の女子学生が参加した。
平成九(一九九七)年に当時の国王からゴルカ・ダッチン・バウ賞を、平成二一(二〇〇九)年には吉川英治文化賞を贈られた。
近年は垣見式マイクロ・クレジットを実践している。
私たちの支援は幼児教育、病人の移送、高校生への奨学金供与である。
毎年六月の総会に恒見さんを招き、現地の状況を聴き、「ネパール会通信」で詳細を報告している。
三.スタディ・ツアー
スタディ・ツアーは平成一二(二〇〇〇)年春に実現した。
一向は数人から一〇人。在校生・OBの希望者に副会長森慎一郎教諭が同行する。
現地では恒見さんとネパール人協力者GさんとLさんが迎えてくれる。
一時マオイスト跋扈の情報で中止したが、公募ツアーは六回、他に個人的なものを含めると前後一〇回、延べ五〇人(父母を加えると五〇数人)が参加した。
単独で長期滞在し、修士論文を書いた者が複数いる。
「私たちとネパール」は恒見さんとの出会いがあってこそ実現した。
森教諭は、現地での恒見さんを見せたたいのだと語る。(平成一九(二〇〇七)年、森教諭の異動によりツアーは終了)
四.「ネパール会通信」と一〇周年記念誌
通信は年三、四回発行、現在、四九号。
平成一七(二〇〇五)年に記念誌「ネパール会のいままでとこれから」、同補足編を翌夏刊行。「通信」に会の将来像を描かれ、本誌の完成を喜ばれた久保謙一第二代会長(当時都立大名誉教授 物理)はこの直後、病で死去された。享年六九歳。
五.おわりに
第三代会長は元校長堀信行先生(都立大名誉教授 地理、現奈良大学教授)。昨秋恒見さんの案内で現地踏査をされた。
かつて伊藤さんは、必要なのは「共に生きることのできる人−まず来なさい。オカルドゥンガ(東部の村)迄、徒歩で(道程七日)。」と言われてた。
恒見さんは「一人一村」を呼びかけている。
「まず一か月村に住んで、人々の心を感じてほしい」と。
おわりに。創立以来の、また長年の会員方、現地へ子女を送り出してくださった保護者方、父母役員方(中でも元広報のIさん、Mさん)、心より感謝したい。
目下、最終的な大事業、ネパール金基金二〇〇万円を生かす計画を進めている。