私が入学した昭和25年は初めて新制中学の卒業生が高等学校へ入学する年に当たります。
私共は小学校6年生から中学3年生まで4年間にわたり最上級生であったわけです。
(中学は新制中学で私共が一期生となり3年間最上級生でした。)
高校に入り久しぶりに上級生と接すると自分達よりとても大きな大人に見え、皆ギャップを感じたようです。
私が入学した当時は、独立した写真部は活動を休止していたようで、組織はなかったと思います。
当時カメラが少なく(個人が持っている人も少なく)当然現像や焼付、引伸ばしをする店も少なかったと思います。
当時はまだ白黒写真で大きな版の印画紙もメーカーまで行かないと市販していませんでした。
カメラはライカが中心で、やっと国産のカメラが発売され始めた頃です。
当時の部活動は部全体のまとまった活動はほとんどなく、個人的に活動していたと思います。
たまたま私の担任の先生が松岡先生であったため、美術と合同で活動させていただきまして、部のスケッチ旅行に同行したり、人物のデッサンのときにポートレートの撮影などを美術部の人達と合同で行っていました。
当時の部活動は部として合同で行うことは少なく、個人が撮影した作品を評価したりトリミングの意見交換したりする程度で、部としてまとまて活動した記憶はありません。
写真部の活動とは必ずしも云えませんが、私の最も強烈な記憶は、川上君(同窓生)の体育館屋上からの転落死事件です。
当時は記念祭で酒を飲んで寮歌を歌い、ファイヤーストームをするのが我校の伝統でした。
飲酒経験のない新制中学卒の若者には無理に飲んだ酒がきいて、体育館の屋上のフチに寝てしまい転落死しました。
毛布の端が屋上のフチに残って風に吹かれる様は、とても物悲しく見えました。
当時一緒に酒を飲んだ人は碑文谷警察の講堂に呼ばれ、署長から”甘い酒ならともかく、からい酒を飲んではいかん”とお説教を受けました。