座談会:都高を語る

一九八八年八月二九日 日比谷 松本楼にて
出席者
 柴田 孝夫(社会科・旧職員)帝京大教授
 喜多 迅鷹(社会科・旧職員)画家・翻訳家
 小野 牧夫(国語科・旧職員)大東文化大学
 工藤 好吉(体育科・旧職員)東京都立大学講師
 春山 秀雄(英語科・現職員)
 安食 恒彦(社会科・現職員)
 香取 良平(数学科・現職員)
 岩間 輝生(国語科・現職員)

役職は1988年当時のものです。     

着任の頃

岩間(司会) 本日は、都高六十年、もう少し性格にいうと、新制移行以来の歴史を、とくに歴史と言うかたちで大文字に出ないような裏話を、それぞれ在籍中の思い出ということで、豊富に語っていただきたいといことで企画しました。 きょう、ご出席の方ですと、柴田先生が一番早く着任されていますが、着任されたころの都高の様子などをお話くださいませんか。

柴田 私があの学校につれられこられたときの事情から(笑)、話をいたします。 たいへん変なかたちになっておりましてね。実は私はその前、豊多摩におりました。 校長に突然呼ばれまして、「あらたの給料は教育委員会から出ていないんだよ」と言うのです。 何のことかわからない。 「あんたの給料は学務課から出ている」 「学務課とはどういうことだ」 「ここの教員ではないんだ。ついてはあなたは他に行くよりしようがないんだ。都立高校にあなたの席がある」と言う。

 それで渋谷の駅に行きまして、「都立高校ってどこだ」と聞いたら、「柿の坂で降りろ」と言う。 そこで、尋ね、尋ね、きましたところ、入り口の黒板に「柴田先生休講」と書いてあるんです。 これがまたわからない(笑)。 そのときに出てこられたのが鈴木三之助先生でした。 「あなたがちっとも来ないから、休講のままになっているんだ」というのです。 しようがないから来たわけですから、八王子からあそこまでは一時間四十分かかるのです。困ったけれど、どうにもならない。 そういうことで来ましたような状態です。

 何もできていなかったですね。昔の体育館の向かい側に三階に高等学校の部屋ができていました。 旧館の附属よりの、体育館に面した部分の三階です。雨漏りだらけでどうにもならんところでしてね(笑)。 それから私は二十年間、そのままに居座ってしまったわけです。

 学校に来まして、私は何の授業を持つのかわからない。 「日本誌と世界史と地理の三種類があなたの分だ」というわけです。 時間表に、柴田デーという日がりまして、その日はその学年全部、私が一日持つわけです。 同じ生徒に日本史と世界史と地理をやる。 三コマで一日なので、かれこれ二時間授業だと思うのです。 二時間やって、また二時間やって、午後に二時間やる。その後に、定時制がくっついておりまして、あくる日は一日休みといいう、隔日勤務でした。 そういうことで、かなりひどいでたらめをやったものです。

岩間 喜多先生は五〇年九月(編者注:1950年9月)に着任されたわけですね。

喜多 あの時代は、年齢からすると、大人というのですか、たばこなども吸っていました。 「たばこありませんか」と生徒が聞きにくる(笑)。 それに対して違和感も覚えないような雰囲気だったんですね。

 ぼくも実は希望して来たわけじゃないんです。 社会科で胸を悪くした先生がいまして、一年間休職ということで、だれか変りのコマはいないかと探したが、一年間だけやってくれ、一年後にはクビにするぞ、というわけですから、なかなかいない。 「おまえどうだ」というので、ちょうどぶらぶらしていたものですから、「変わってあげましょう」。 一年後にはやめるつもりで来たわけです。

 それが、一年たってもだめだ、もう一年やってくれないかと言われ、やっていたのですが、二年目の一、二か月くらいのところで亡くなられたのです。 それで、なんと十九年は二〇年、そのままずるずると来たというわけです。 ぼくも何となく都立の雰囲気にひかれて、深みにはまったというのですか(笑)、抜け出しがたくなって、居心地のいい学校でした。

 最年長の柴田さんでも三三歳でしたよ。 ぼくは二五歳、松さん(編者注:松俊夫教諭、在職期間:1950年3月31日〜1974年3月31日)も同じ年。ですから、非常に若かった。 それから三クラスでしょう。 旧制高校の伝統というので、戦後できた高校とはたいへん違って、特色がありました。それにひかれていつの間にか伝統というのですか、意識して校風を立てようというのではなくて、ともかく生徒と一緒に楽しくやるみたいな中で、あの学校の個性が引き継がれてきたと思うのです。

 ですから、いまから言えば脱線したみたいなことがあっても、教師のほうもたいして危険性を感じていないわけです。 たとえば、二八年(編者注:昭和28年)に関西に修学旅行に行ったとき、飲酒事件がありましてね。 その概要は別として、普通だったら、生徒が飲酒しいてひどい状態になっている、教師がそれをチェックして、帰って来てからしぼる。 それと全然違い、付き添いの小笠原校長が「飲みに行こう」と生徒を引き連れて行った(笑)。

 それで、教師ではなくて他の生徒が「ちょっとけしからんじゃないか」というわけで、その校長と生徒が帰って来たとことろで、旅館で臨時に生徒大会を開いたのです。 修学旅行あるいは学校での飲酒ということは許されるべきかどうか。

 それが持ち越されて、帰って来て、在校生一同で生徒大会が開かれました。 結局、校長が「校内で飲酒はいっさいやめましょう」。 だから、学校側が社会人として未成年者の飲酒を禁止をしたのではなくて、むしろ張本人だった校長が生徒と申し合わせて、生徒の前で叱る。 そういう解決の仕方ですね。そういったところにあの学校の特色が強く出ています。

 ですから、ぼくは生徒大会で吊し上げといいますか、檀上に立ってしゃべらされましたが、全く不愉快な感じではない。 率直に言いたいことを言い、生徒のほうも遠慮しないで言うわけです。 そういう雰囲気があの学校の一番の特色だったと、非常に強い印象で残っていますね。

岩間 小野先生は二八年(編者注:昭和28年)に着任されたわけですね。やはり、いまのお話に出たような、他の学校にないような特色をお感じになりましたか。

小野 喜多さんのお話のとおりです。ぼくが来てからですよ、飲酒事件は。 来て、わりあいすぐだったかもしれない。ぼくは浦和から来ましたが、小さい学校で、ずっと三クラスですからね。 それが一つ。それから、附属ですから自由の伝統があって、いまの飲酒事件をうけて、あの後、野球部などは積極的に自主決議をして、やめようというふうに動いているんだ。 下からみんなで学校のつまらない問題を話し合いで押さえこんでいくという動くを作っていた時期ですね。

岩間 工藤先生は小野先生の一年後ですね。独特のスクールカラーはもうできあがっていたのでしょうか。

工藤 できあがっていたかどうか。
 附属に入ったときは総長選考だったものですから、採用されても、普通の学校ですと生徒に紹介などがありますが、それもいっさいなし、しょっぱなの授業には自己紹介から入る。 場合によっては、あいている小松先生が行って紹介してくれるとか、だいたい自己紹介に近かったですね。 これもさっき柴田先生がおしゃったような、各科に全部任せていたような雰囲気だったんですね。 そういう点は他の学校では考えられないことだろうと思うし、それだからなおさら個人がしっかりしないといかんという気も、その当初から持ちましたね。

 
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