正常化への努力

岩間 定期テストをやらないといううのは、わかるような気がするのですが、どういうことでですか。

工藤 さっきも触れましたが、テストのために授業をしているのではないか、そんなテストは廃止してしまえということからです。 でも、調査書というのがある、そのためにも何か出さなくてはだめだ。 そこで社会科あたりはレポートでするとか、いろいろな方法を講じてきたわけですが、二七期ですか、ちょうどぼくが担任していたとき、教師間でも、定期テストがないと生徒がたるんでしまう。 やはりあったほうがいいという。 そこで、五、六年続いたでしょうか、方々のクラスで討論し、定期テストの復活は非常に簡単に決まりました。生徒が要求したので、そのまま。

安食 生徒のほうもレポートを書かされるより試験のほうがまだましだという、そこまでいった部分がありますよ。

春山 こういことがありましたね。英語ですと、小テストをやったりするのはいいということでしたでしょう。 だから、しょっちゅう小テストがある。 すると、生徒が、「急に言われても困る。やはり予定が立ててくれ。いつごろある」という逆要求が来ましてね(笑)。 勉強は常時するものだけれど、そうはできなくなったというのです。

安食 英語は小テストをやるし、社会科のレポート締め切りがあるし、国語はやる、あれもやるとなると、教師のほうはいいと思ってやっていても、ね。

工藤 二七期をやるとき、どうしてもっと早くにテスト復活をしなかったんですかと聞くから、君たちから要求がなかったからだとごまかしたけれどね。 そのとき、卒業式も出ましたよ。 「ぼくたちの学年のときに卒業式を復活してくれませんか」って。 その前の年、田中さん(編者注:田中精一教諭。在職期間:1968年7月1日〜1979年3月31日)が担任だったのかな、何とかしようということで、体育館ができたところで、卒業パーティーみたいなものをやって、あれを現役が見て、やはり卒業式をやろうということで、定期テストが復活したとたんに生徒のほうから出まして、それも各ホームにかけ、そうしたらやろうということなった。

 そのときの条件に、「校長の話はなくす」というのです。 「それは卒業式にならない」「だめだ。それだったら卒業式はいままでどおりやらないでいこう」「では、校長にこちら側の要求をくんだ話にしてくれるように頼んでくれないか」 「それは失礼にあたるが、いちおう頼むことはいいだろう」というので、三浦校長(編者注:三浦武第九代校長。在職期間:1974年4月1日〜1977年3月31日)に話したら、思った通りですよ。 「そんな失礼な。ぼくは卒業式に出ない」と言う。

 「でも、明日は卒業式ですから、これでは困る」で、電話したら、出てくれるという。三浦さんは生徒をけなす話しかしないので、「少し生徒をおだてるような話も入れてくれませんか」と頼み、スムーズに、いちおうその前の卒業式の形態になりました。

 ぼくも四四年でああいうことを経験し、二七期のときに復活してホッとしたというのを、いま思い出しているんです。

小野 卒業式復活はそうとう後なんだけれど、授業再開のころは、個人的にはうんと勉強になりましたね。 いままでいかに「教室」という箱舟に乗って授業していたかということを思い知らされたんです。 はじめのうちは一切ぼくが手を出すことをやめて、生徒が自分たちでグループを作って、自分たちでやる。 そのかわり、毎時間の報告をさせて、問題になって困っているところだけをプリントを切りました。 クラスごとにみんな違うプリントを切らないといけない。 そういことをやりながらも、「やはり先生の講義を聴こうよ」というふにだんだんなっていったんです。

 試験問題もずいぶん自分で変えたしね。いままでのようなのではなくて、たとえば古典でも人物の形象をもう一回再現してみるとか、いままで訳ばかり出していたのですが、訳は頭のいい子は覚えてくれるけれど、いたずらのやつは訳を覚えるのはばからしいから覚えてこない。 だけど、読んでいると人物は覚えている。 それをもう一回自分のペンで、現代語でいいから作り出してみるとか。 できないやつがかえってそちらができるということを発見したり。

 そして、いい点だけを生かそうということで、平均ではないわけです。 そうすると、みんな並んでくる。 高校は絶対評価ですから、並んだ点が出てきても困らないでしょう。いろいろおもしろい経験をしましたよ。 あとから考えると苦労は多かったけれど、自分のためになったな、よくやれたなと思うほどですよ。 統一した試験がないからクラスごとにやるでしょう。 同じことをやっていても、みんな違う問題を作らないといけない。 試験問題を作る技術を覚えたり(笑)。

喜多 あの紛争の中で職員会議が頻繁に開かれて、いつ終わるかわからないようなときもありました。

岩間 徹夜のときのあったんじゃないですか。

工藤 全部の先生じゃなくて、ある一部のね。

喜多 泊まり込みもありました。小野さんが言われたように、教師がまともに対応していましね、どんな問題でも。 イデオロギッシュにとらないで、一人の若者、一人ひとりの生徒の要求として。 生徒のほうはどのくらい紛争で得られたか。 個人、個人いろいろあるでしょうが、教師のほうはまともに取り組んだだけに、それだけ得るものがそれなりにあったんじゃないかという気がしますね。

岩間 授業、試験、評価という、わかりきっていることを、あらためて考えなおさせられたということなんでしょうね。 春山先生は紛争でだいぶ苦労されたと思うのですが。

春山 英語の授業ですと、あのころ生徒に書かせるということを重点にやるように変わったなと思っています。 当時の生徒の英語で来たものがたくさんあります。 今だとはやりですが、残留孤児の体験を英語で書いた女の子がいました。自分には妹がいた、それを満州から逃げてくるとき、途中で捨ててきた。 自分は何も知らなかったとうことを、長い英語で、たどたどしいけれど。 いろいろな記録が出てきます。そういうかたちで評価をつけざるを得なかった。

 紛争の子は、「試験はいやだ」と言う。「だったらなぜいやなのか、思ったことを反論でいいから書きなさい。内容では差別しません」と言ったら、反論できなくなって、自分のやってきたこと、主張を書いてきたのです。

 ともかくそういうように変わってきました。ただ、労力はたいへんだったなという気はしています。

岩間 安食先生はちょうど紛争の時期に着任されましたね。もう二〇年も前になりますが、どうですか、振り替えられて。

安食 最初のうちは高校紛争そのものがわからなくて、マスコミ対策で外に立って門番ばかりやっていたんだ(笑)。 そのあとずっと見ていくと、紛争を体験して自分の授業のスタイルを作るというか、そういうせっぱつまされたときに考えついたのがいまの方式になっています。 だから、ああいう紛争がなければごく普通の、大学受験に通用するような、これを覚えなさい、これを覚えると入りますよ、というような授業をやる先生になったかもしれないのが、そうじゃない部分を持って、何かできるようになったのは、紛争のおかげといえばおかげじゃないかという気がする。

 さっき、小野先生も喜多先生もおっしゃっていたけれど、教師の中で生徒と話し合って何かしよう、いま香取先生が生徒部長でやられていることも、あれの延長上というかな、そっくり同じじゃないけれど、元に流されている部分は、柴田先生あたりから始まった生徒との対応の仕方というものは、何となく教師の中の伝統として残っているんじゃないか。

 だから、急激に何だかんだというかたちにならないのも、はたから見ると非常に生温いし、しんどい。 何しろ教師が働くしかないというようなところは、いまもってまだ残っていると思うんです。 そのあと、紛争にしても四回くらいあって、だんだん生徒側の紛争の目玉というか、こちらに要求してくることは、もう外部的な話であって、教育の中身の話ではなくなっている。 しかし、紛争という形態をとって封鎖はやる、というようなことがずっと続いたわけです。

 だから、あとのほうはあまり勉強にならなかったけれど、正常化するにはどうしたらいいのか。ぼくが考えたのは、基本的生活習慣を作らせるしかないんじゃないか。 だから、まず掃除をしろ、上履き、下履きをちゃんとしろとか、そういうところから始めたように思うのです。 そういう流れの中の最後の部分の生徒部長がぼくだったこともあって、いまでも「土足厳禁」など残っていますが、あれはみんな美術の西村さん(編者注:西村政次教諭。在職期間:1971年4月1日〜1981年3月31日)に作ってもらったものです。 生徒も一緒になって、工芸で作ったのかな、自分たちで作った部分もあるんだろうと思うけれど。

 ショートホームルームなんか、昔はありゃしなかったんです。 一週間に一遍、教師が行けばいいような情況だったのが、普通の学校式にショートホームルームで毎日行くようになるような形態も、そういう流れの中で出てきた。 生徒ももちろん変わってきたと思うけれど。 ぼく自身としては附属にいて生徒に育てられた部分と、先生方に教わった部分とたくさんあると思います。

岩間 香取先生は五二年(編者注:昭和52年)からですから、紛争が一段落してからといことになりますか。

香取 ほとんど終わっていて、本質的にいえば紛争も何も、跡形もない。生徒もガラッと変わっていて、全然違うんです。 進学校じゃなくなっている。ごく普通の高校になっている。 そういう生徒なんだけれど、ぼくが来たころはまだ先生たちが、そうじゃない、紛争の後片づけ、紛争から学んだことを発揮するために、いろいろ試みをされているんです。 たくさんいろいろなことをされているがゆえに、生徒たちも自分たちはもうそういう対象ではなくてもそういう憧れを持って、それにこたえようという努力はしていましたね。

 ぼくは最初は授業をぶつけてみたら、バンバンやってくれる。 すごく気持ちいい学校でした。それが、生徒部長をやるころになってから、だんだんなじんできたというか、一般の高校と同じになってきて、風化されてきている。 それと同時に、先生方も新しい先生になったり、いろいろなかたちの変化があって、普通高校なみに変わっているんじゃないかなという気はしているのです。

 ただ、安食先生が言われたような、いい面は残そうとした。生徒部だけじゃないと思うんです。 教務でも総務でもいい面は残そうというかたちはあるんだけれど、それでは補えなくなって、形式的になったことがずいぶんありますね。

 とくに、一学期の中間テストが復活したのは五四年ごろですか。やろうというのは生徒から出たんです。 急に始まったわけですね。 それまではクラスマッチが五月の半ばだし、本試験を五月の終わりにやってもしようがないからといって、中間テストなしで、期末テストまで何もなかったんですが、本試験をやってほしいという、あれと同じかたちで、生徒から。「中間テストをばらばらと授業ごとにやられちゃ困るから、まとめてほしい」という要望があって、教務が出てきた。 そういうことで、だんだん生徒自身が普通高校になていったという感じです。


 
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